2015/04/09

3月21日 第5回「みらいの道徳をつくる会」が開かれる

第5回は、「生命尊重」の指導に関わる内容でした。

授業実践事例報告では、まず小学校からは
「命を見つめて」(『みんなのどうとく』6年学研に所収)を題材とした授業実践が、
東京都世田谷区立池ノ上小学校の庄子寛之先生から報告されました。
詳細は、メールマガジン等でもお知らせしますが、
概略は
下記のとおりです。

①高学年用の道徳資料を中学年(4年)で実施した理由。
②ノンフィクション資料を取り上げるにあたっての注意事項。
  * 上記の資料では、後付けでなく、亡くなった瞳さんの意思が明確に表れているのでよい。
③「生命尊重」では、その「有意性」(意義を見出し価値を追い求める)を第一の重点としていること。
④授業の様子
  * 「幸せ」についての考えを問いかける導入。
  * 「命をみつめて」を読み、話し合う。
      ・余命を告げられた後の、瞳さんの最期の生き方について。
  * 自分に重ねて考えてみる。(後段)
  * 弁論大会での瞳さんの力強い訴えの映像を視聴して終わる。

会場からは、

・「生命尊重」のように葛藤に拠らない指導の場合、「当たり前の意識」を「確信」に至らせるには自分事として考えさせる工夫が大切になる。
・デスエデュケーションに対する否定論もあるが、死あればこその生なので結構。学級経営上は、なぜ命は大切にしなければならないのかを日常的に示唆しておかなければならないのではないか。
などの発言が相次ぎました。

続いて中学校からは、神奈川県川崎市立中原中学校の南雲和子先生から発表いただきました。
テーマは、地域ぐるみで取り組まれている防災訓練をベースとした、「体験活動との関連を図った道徳の時間」です。

①地区防災訓練において生徒が体験した価値
②域内消防署員と協働して行う、DIG(図上訓練)体験
  * 東日本大震災の折に救援に赴いた署員の講話
③絵本「かぜの でんわ」の読み聞かせと揺さぶり
④神奈川県の道徳資料「羽ばたけ一美」(『きらめき』所収)による「生命尊重」の授業

一見すれば様々な価値が入り込んだバラバラな体験のようですが、いくつかの「仕掛け」によって生徒の問題意識は自然と「生命」の問題へと向かっていきました。
「羽ばたけ一美」の授業では、主人公の心が変容していく理由に関わり、生命について深く考えるようになっていきます。(詳細は、学研発行の『道徳ジャーナル』90号(=5月上旬下記に掲載予定)で無料購読することができます。http://gakkokyoiku.gakken.co.jp/journal/ )

会場からは、
・体験的な教材を一定度意図的に集約すれば、生徒も自分の思いを語りやすくなると思われた。
・『きらめき』の授業手法はユニークで簡便だが、型が決まっていることの弊害はないのだろうか。
などの意見が出されています。
『きらめき』資料による授業については、生徒が登場人物に仮託して自分の心情や考えが発表しやすいように練られた自作資料なので話し合いになりやすいとの回答がありました。

最後には、
初めてお招きした円照寺(=東京・新宿区)の副住職篠山昌弘さんの講話と東風安生による「死生観と道徳教育」についての講話が続きました。

篠山さんは、自らの体験を織り交ぜながら、人が「無明」に陥ることの危険性を、仏教の基礎を通じてたいへんわかりやすく指摘されました。「無明」とは、「自分の存在意義がまったくわからなくなった」ような状態を指すのだそうです。また、自分の存在意義は、他者からしか与えられないものであるとも。
さらに、「自利利他」のように、自分から他者を認めることが、自分が他者から存在意義を与えられる礎になると語られました。
 そして、先生方へのお願いとして、小学校の時代から「相手が何を求めているかを知る」ために相手の眼を見て「聴く」ことを子どもたちに習慣づけてほしいと話されました。
「死生観」は、如何に生きるかを指し示す言葉であり、釈迦が誕生した際に言ったとされる誤解されがちな言葉「天上天下唯我独尊」も、人間は苦しみの中を生きるが、全ての人間はどんなに苦しくとも生き抜く理由があり、そのために自分(釈迦)が存在するといった意味のようです。
子どもたちが「無明」に陥らぬように、生命尊重の準備教育が大切になるとのご意見でした。

東風安生によれば、持続的で詳細な調査データをもとに、
時代とともに「不死生」(自分は死なない)「死後生」(死んでも生き返る)の認識が若者に定着しつつあるという。
そこで、これからの「生命尊重」教育では「死」のみを扱うことは避けるべきで、ポジティブになれる、生きる意欲が高まるような指導が必要になっていると訴えた。

その後の質問タイムでは、
報道を賑わせている、子どもが絡んだ家族間での殺人事件などが起こっていることについて、どのような心の問題があるか、といった質問が飛んだ。
その点については、互いに愛情不足を感じていることが増えているのではないかという点が気がかりとされた。また、心の拠り所となるのは、やはり他者とのコミュニケーションに尽きるようで、互いに何でも言える関係を築いたり、何でも話せる存在を作ったりするために、自分から求める姿勢が必要になるでしょう、と話されました。



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